大洗磯前神社|大洗歴史漫歩(大久保 景明)

 民謡いそぶしに「磯で名所は大洗さまよ、松が見えますほのぼのと」とありますが、この大洗さまとは大洗磯前神社のことです。

 漫歩は、この古くより多くの人々に崇敬されてきた大洗磯前神社からはじめましょう。

 ご祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)少彦名命(すくなひこなのみこと)の二神です。今からちょうど1100年前に書かれた文徳実録という史書に


斉衡3年(西暦856年)12月戊戌常陸国上言 大洗磯前に神が新たにくだった。初め塩を煮る郡民達が夜半海上を望むと天が輝いていた。明日2個の怪石が海面に顕れた。高さ各々尺許形は神の造ったものの如くで尋常でない。塩焼の爺が大いに異しんだ。翌日又は20余の小石が汀にあがって、恰もその石にはべっているように見える。彩光が常でなく形は沙門の様で唯耳目がない、時に神が人に憑いて云う。我は大奈母知、少比古命なり、昔し此の国を造り、去って東海に往きしが、今民を済わん為に亦帰り来たる(後略)


とあります。

 そして翌年の天安元年8月に官社になり、その10月には薬師菩薩明神の名を授けられました。

 怪石出現から僅に8ヶ月足らずの内に、国司の奏上、神社の創建、名神号を授けると云うあわただしさは何を物語るものであろうか。その神威の広大さ(?)に往時の人々が大いに畏れかしこんださまが偲ばれます。

 爾来、この神社は多くの人々から篤く信仰されてきました。

 水戸黄門漫遊記の格さんのモデルであると云われる安積覚が書いた本緑跋の中に


元禄6年7月7日銚子沖合に風波起り、756人死んだ、中に本町の漁夫も63人いたが、1人も死ななかった。一斉に本社に祈ったからである。同9月7日岩城小名四倉に暴風が起り溺死するものが3千余人、本町の漁人も15人その中にいたが一昼夜漂流して商船に救われ、皆死を免れた。これも本社を黙禱したからだ


と云うような霊験をいくつもいくつも書いています。

 今でも福徳開運の神、医薬の神、縁むすびの神、豊漁豊作の神、災厄除の神として多くの参詣者があります。

 現在の神殿は今から309年前の元禄3年7月に源義公(水戸黄門)の奉建によるものですが、山の中腹にあったのを、享保15年8月に義公の養子の粛公が、永禄以前の旧跡である今の地に引いたものです。昭和45年に拝殿本殿共に茨城県の指定文化財となり、拝殿は同年に解体大修理が行われました。

 この神社の主なお祭りは、元旦祭、節分祭、太々神楽祭、田植祭、八朔祭、有賀祭ですが、八朔祭、有賀祭は特に有名です。

1979夏 地図①


追記

鎮座1140年記念事業として、本殿の解体大修理および海洋博物館の改築、駐車場の新設等を実施し、平成10年8月完成奉祝祭が盛大に行われました。現在の宮司は飯塚重氏です。


著者情報もくじ


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出典|大洗歴史漫歩、2002(平成14)年5月18日発行

著者・発行者|大久保 景明

印刷・製本|凸版印刷株式会社


登録者|田山 久子(ONCA)