私と海|「海と踊る」(金澤 真里)
うらうらとした日溜まりの中、潔く咲く桜並木。
さくら坂通りを抜け坂道のてっぺんから見える清く生き生きと、神羅万象が生まれ輝き放つ春の大洗海岸。
波はまるで子供が手足を思いっきり伸ばすかのよう。いたずらに笑う太陽の煌めきを伸ばしたその手ですくい上げ、水面へ太陽の欠片を優しく吹く。
その煌めく金色の光混ざる風を感じたくて車の窓を全開にして、風は私を包み
そして頬や髪の間をするりと通り松林に潮の香りと共に抜けてゆく。
「わあ!海だ!」
何度見ても同じ姿はない大洗海岸の美しいこと。
坂の下から歓び溢れる海と心が共鳴し早く会いたくて、車のハンドルを握る手にきゅっと力が入り、アクセルを少し強めに踏んでしまう。
「今日は、海岸のゴミを拾いながら磯菜摘でもしましょうか。」
独りごとを言いながらワクワクと心躍らせ、ゴミ袋とトングを握り締め神磯へ向かう足取りも軽く、ステップを踏んで。今から愛しき海とダンスを踊るのです。
大洗海岸、神磯周辺の海岸清掃を始めて一年と半年。
私の趣味は海岸清掃。
何が楽しくて海岸清掃をするのか、不思議に思われるかもしれないでしょう。
たしかに、拾いきれない程の多くのゴミが落ちている浜辺に立つと私は胸をナイフで切られ、心臓や みぞおちを金属でできた冷たく大きなスプーンでえぐり取られるような…
痛みを伴う悲しみを味わうこともあるのです。
それでも、なぜ掃除をするのか。
それは、自然と繋がり共にゴミ拾いをすると魂からの喜びや楽しさが体中から湧きあがり溢れ海まで流れでるから。
楽しさの説明書はないので、私の感じる海の1ページを紹介しましょう。
卵のように丸い石たちを踏みしめながら波と丸っこい石たちが ざざざん、ざざざんと会話をする波打ち際へ参ると、ごつりごつりとした岩礁が色鮮やかな緑の海藻を纏い化粧をしている。ほんの少しの赤色の海藻がアクセントとなり、青田の中を駆け抜ける大洗鹿島線を連想させ自然の粋な計らいに心躍る。
その、ぬるりぬるりとした岩礁に登り辺りを見回すと私が海と一体となり見える世界が、一瞬にしてがらりと変わる。
岩礁にはお椀のように窪んだ潮だまりがいくつもできていて、揺らぐ水面の潮だまりの中に躊躇することなく手を入れ花咲く赤褐色の磯巾着の真ん中を指で優しくつつくと、花びらのような触手が開いては閉じを繰り返す。
まるで夏の夜空に花咲く花火が水の中に落っこちたみたいで、あちらこちらの磯巾着をそっとつつき磯巾着花火大会を楽しむ。
岩礁周辺の荒磯の海中の世界はカジメの森が広がっており、多くの命を森が守り育んでいる。
カジメの森は、私たちが生活排水として排出した窒素やリンを吸収し富栄養化を防いでくれ、山の森と同じく酸素を生きものたちへプレゼントしてくれている。
大嵐の日には海の底で物も言わずひっそりと耐え、荒れる波を防ぐ防風林の役割も担っている。
豊かな海の森はあらゆる生きもの達の大食堂であり産卵場であり、姥の懐のように安心できるゆりかご…。
その、大洗海岸のカジメの森ではアメフラシ一族が繁栄しており、6月〜7月夏の大潮時にはアメフラシが岩礁の潮だまりで産卵をする光景を目にすることができる。その卵は生ラーメンの麺に瓜二つ。
初めて目にする方は、海岸の異変に驚かれることでしょう。
辺り一面に生ラーメンが落ちているのだから!
昨年、波打ち際でゴミ拾いしていると観光に訪れた女性が何かを目で語っており駆け寄りますと、そこにはアメフラシが浜に打ち上げられ女性は海に返したいが触れない様子。そこで私がさっそうとぬたっとしたアメフラシを手に取り、できるだけ遠く沖に還すと、その女性の表情は驚きと歓喜に溢れていて、今もその子供のように純粋な表情と感情は私の胸に刻まれています。
海の森の存在を知ると、陸上の世界がひっくり返ってそのまま海の世界に反映していることを五感で感じることができるでしょう。
是非、多くの方に大洗海岸の美しい景観と海の世界を全身で味わって欲しいのです。
ゴミ拾いは、泡になり消えかけていた本当の自分の感性と、本当の豊かさとは何かを、ひとつ拾い上げるごとに氣付かせてくれる。
私にとってゴミ拾いは、自分の心拾いでもあるのです。
著者|金澤 真里(ビーチクリーンボランティア「海と踊る」主宰 )
登録者|金澤 真里(ONCA)
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