大洗磯前の神|律令制度|古代|大洗町史(第2章第2節)


二 大洗磯前の神

 大洗磯前神社は、古名を大洗磯前薬師菩薩神社と言い、神社名が『延喜式』に見える。

 『文徳実録』によると、祭神の大己貴命と少彦名命が、文徳天皇の時代に、海上から出現されたと説明かあり、この地に古くから海上安全・豊かな収穫をつかさどる神として祀られていたようである。

 原始時代には、生活に関係したあらゆる自然現象や動植物をおそれ、あるいは尊敬して、そこからそれらを神聖なもの、「カミ」として崇敬礼拝してきた。その後、農耕・漁労の発展に伴い、農耕・漁労生活に関係深い事物、また驚異に値するはたらきが、「カミ」と考えられ、崇拝されるようになった。

 古代の大洗の漁氏たちは、水産資源のより豊かな収穫を祈って、大洗磯前の神の降臨をねがい、祈願祭を行い、より多くの収穫を神に感謝し、信仰してきたものであろう。



(1)大洗磯前神社の創建

大洗磯前神社



 大洗磯前神社について『文徳実録』によると次のように記されている。


 文徳天皇(齊衡三年十二月)戊戌(廿九)。常陸國上言。鹿嶋郡大洗磯前有レ神新降。初郡民有二煑レ海爲レ塩者一夜半望レ海。光耀属レ天。明日有二兩恠石一。見在二水次一。高各尺許。體於二祁造一。非二人間石一。塩翁私異レ之去。後一日。亦有二廿餘小石一。在二向石左右一。似レ右二侍坐一。彩色非レ常。或形槽像二沙門一。唯無二耳目一。時神憑レ人云。我是大奈母知少比古奈命也。昔效二此國一訖。去往二東海一。今爲レ濟レ民。更亦來歸。


読み下すと、


 「丈徳反収(膺衡三年十二月廿九口)常陸国上言す。鹿嶋郡大洗磯前に神有りて、新たに降る。初め郡民、海を煑て塩と為す者有り、夜半海を臨む、光り輝きて天を属(しょく)す、明日(あくるひ)両(ひた)つの恠(あやしい)石有り、見るに水次に在り、高さ各、尺許りなり、体は神に造り出ずる、人間の石に非ず、塩翁私(ひそか)に、之を異(あやし)として去る、後一日にして、亦廿(にじゅう)餘の小石有、向(さき)の石の左右に在り、侍坐するが若くに似たり、彩色常に非ず、或るひは形は沙門を像(かた)どる、唯だ耳目無きのみ、時に神、人に、憑きて云う、我は是れ大奈母知、少比古奈命也、昔、此国を造り訖(おはりて)、去りて東海に往く、今、民を濟(すく)う為、更に亦来りて帰りぬ」

であり、つづいて、文徳天皇天安元年八月に、


文徳天皇天安元年八月
 八月乙丑朔辛(七)未。在二常陸國一大洗饑前。酒列磯前神等 預二官社一。


「常陸国に在る大洗磯前、酒列磯前神等官社に預る」とある。


意訳すると、


 文徳天皇齊衡三年(856)十二月戊戌(廿(にじゅう)九日)常陸国司が朝廷に奏上する。鹿鵤郡大洗磯前に神が新たに天から降られた。鹿島灘の大洗の海浜に住む者は、海水を煮て、塩を作る者が多かった。その者どもが、夜中に海面を望み見るに、光り輝くものが、天に接して見えた。その翌日、その光り輝いたあたりを探索したところ、海岸に接して二つの不思議な形をした岩石、二つとも直径が一尺ほどのものが海岸にある。その二つの怪石は、神がその形をとって出現されたというべきであり、人間が勝手に造った怪石というべきものではない。塩翁は、これは不思議なものだと思いながら、これを見極めることが出来ず、その日はそこを去った。翌日行って見ると、先の怪石に向かって、その左右に廿(にじゅう)余の小石が存在するのが認められた。その並び方は先きの二つの怪石を守るかのようであり、またその小石の色彩も普通のものと異なる不思議な色をしたものであった。

 この二つの石の姿は僧侶のような形をしている。その僧侶には耳と目がなく、時にその怪石の形をした神が人に憑(つ)いていわれるにはわれこそは「大己貴命 少彦名命」である。昔、この国を造り終えた後、去って「東海」に住居するようになった。今、民を濟うために帰ってきた。


つづいて意訳すると、


 このことを国司が上言したので、勅許をもって、天安元年八月乙丑朔辛未(七日)、常陸国にある大洗磯前の神社と酒列磯前神社の二社を官社(国家が幣帛を供進する神社)に列した。とあり、中央朝廷が厚く祀る神社の格式をこの二社に与えたことを記している。

 これを見ると、大洗磯前神社は『文徳実録』に文徳天皇の齊衡三年(856)十二月に大洗磯浜に創建されたことになる。常陸国の国司が朝廷に中請し、それを受けて天安元年(857)に官社(国がおまつりをする神社)になっている。「官社に列す」というのは、国家がその神社の祭祀に幣帛(へいはく)(神に捧げる進物)を供えることになったことを示す。


大洗海岸



 さて、今でも神社下の大洗の海岸には、多くの岩礁が見られ、正徳五年(1725)撰の大洗磯前明神縁起に、


我はこれ大奈母知 少比古奈命なり むかし此国を造り終て東海にさりぬ 今民を済はんために更に又来り帰れりと 今に至って八百五十余年其石厳然として存せり


とあり、また『新編常陸国誌』(巻五村落の条)によると、鹿島郡の磯浜(伊曽皮麻)の条下に、


其ノ磯浜卜名ケシ故海岸二岩礁多キヲ以テナリ
今西ヨリ東ニツヅキタル著名ノ岩礁ヲ挙グレバ


久下(久某住居ノ下ニアリカレコノ名アリ)
大磯(中町ノ下ニアリ)
長磯(二丁日ノシニアリ)
大磯(一丁目ノ下ニアリ)
平磯(沖ナダニアリ卑俗ブイタイト云ウ)
鞍掛(鞍馬の鞍似タルユエ名ヅク明神町ノ下ニアリ)
釜磯(穴アルユエ名ヅク明神町ノ下ニアリ)

大藻崎(海藻生ズルユエ名ヅク明神町ノ下ニアリ)

青潤(波ノウツ毎洞穴ニアタリテ音アリ)

銭磯(丸磯ニテ凹キユエ名ヅク)

畑作(畠ノウネニ似タルユエ名ヅク)

竹輪、鯉畸、大島、鮫島、棚家(男女)

大瓶、横磯、稲穂、中磯、平八郎、南張上、北張上

烏帽子(卑俗エビスト云ウ)

平潟(沖ナダニアリ)

四十日

馬洗洞(又藻洗トモ云ウ)

鈴掛

博梁(西山公ノ涼所アリシ処)

本細 曝、強蔵、赤磯、牛磯、ノウ下

塀垣、滑磯、砂代、切流、深潤間

刨磯(卑俗ハンネイト云ウ)

打留、箱磯等ノ四十五岩アリ、其他ノ小磯二至テハ記スルニ遑アラズト云フ


とある。

 これによっても神社前面の大洗海岸の岩礁の多き姿があったことを認めることが出来る。


 大洗磯前神社を含めて常陸国の式内社は二八社で、大社が七座、小社が二一座である。その内訳は次のとおりである。


鹿嶋郡二座 並大

 鹿島神宮(名神大、月次、新嘗)

 大洗磯前薬師菩薩明神社(名神大)

  

真壁郡一座 小

 大国玉神社


信太郡二座 並小

 楯縫神社

 阿弥神社


久慈郡七座 大一座 小六座

 長幡部神社

 薩都神社

 天之志良波神社

 天速玉姫命神社

 静神社(名神大)

 稲村神社

 立野神社


筑波郡二座 大一座 小一座

 筑波山神社(二座 名神大、小)


那賀郡七座 大二座 小五座

 大井神社

 青山神社

 吉田神社(名神大)

 阿波山上神社

 酒烈磯前薬師菩薩神社(名神大)

 藤内神社


新治郡三座 大一座 小二座

 稲田神社(名神大)

 佐志能神社

 鴨大神御子神主王神社


茨城郡三座 並大

 夷針神社

 羽梨山神社

 主石神社


多珂郡一座 小

 佐波波地祇神社


 常陸国の大社七座は、すべてが名神大社になっている。名神大社というのは大社の上にとくに別の意味から名神という格が加えられたものである。

 名神とは、特に由緒も正しく霊験も著しく諸社を代表する神社という意味であろう。常陸国の式内社は二七処あり、二八座の諸神を祭祀しているが、鹿島郡は二座、新治・茨城郡は各三座、信太・筑波郡は各二座、真壁、多珂郡は各一座ある、が、河内・行方の二郡には、官社が一座も存在していない。



(2) 大洗磯前神社の祭神

 当神社の祭神は『文徳実録』によると「我は是れ、大奈母知 少比古那神なり」とあり、これは大己(おおなむ)貴(ちの)神(大国主神)と少彦(すくなひこ)名(なの)神の両神のことである。

 大己貴神は、イザナギノミコト・イザナミノミコトの子素戔鳴(すさのおの)神の子であり、海原(広い海)を統治なさる神である。この神は、日本神話の中心となる神で、特に出雲神話の主役である。国内平定、国土経営、天下巡行、農業・国土の保護、医薬温泉の神ともされ、数々の文化的事業を神話の上で残している。もちろん出雲大社の主祭神であり、出雲国造が信奉した神である。因幡の白兎(医薬の神)、根の国行き、少彦名神との国土協同経営、国譲りなど、多くの神話が『古事記』『日本書紀』に伝わっている。

 少彦名神は、高皇産(たかみむす)霊(び)尊の子である。この神は『古事記』によると、常に大己貴神(大国主神)と相い並び、力をあわせて国土開拓にあたったと伝えている。

 『古事記』には、次のように述べている。

 大国主命が、出雲の美保崎にいるとき、波の間に間に小さな神が乗った羅摩(かがみの)船(ふね)(チガイモのさやでできた船)が近づいてくるのを見つけた。供の神たちに何者かと問われたが、だれもわからない。そこへ多邇(たに)具(い)久(く)が進みいで「きっと、久延毘(くえび)古(こ)が知っているだろう」と言った。さっそく久延毘古の神を呼んで聞いたところ、「この神は神産(かみむす)巣(びの)日(か)神(み)の御子少(すく)名(な)毘(ひ)古(こ)那(な)神(かみ)である」と答えた。その後、神産巣日神の言葉によって、大国主命と少名毘古那神は、兄弟の契りを結び、国造り、国堅めをされた。



(3) 大洗磯前薬師菩薩

 さらに『延喜式神名帳』の巻九の常陸国鹿島郡の条には、大洗磯前薬師菩薩神社〔名神大〕と見えている。現在は東茨城郡に属しているが、当時は鹿島郡に属していたことがわかる。また、薬師菩薩神社とあるのは、神仏習合の思想の表れである。神仏習合は、奈良時代から神社の境内に神宮寺を建立することに始まった。平安時代になると、仏と古来からの日本の神々との融合を図る動きが生まれ、神は仏が人々を救うため、仮に現世に姿を現したという本地(ほんち)垂迹(すいじゃく)説に発展し、神に菩薩号などをつけることも盛んになった。

 特定の神に対し特定の仏を指定することも行われた。天照大神は大日如来が日本で姿を現したものとされるのは、その一例である。これによって神道と仏教との対立が除かれ、仏教の信仰は、民族信仰となっていった。

 『文徳実録』によると、大洗磯前社の場合は官社に列せられた天安元年八月の記述につづいて同年十月「大洗磯前神、酒列磯前両神、號薬師菩薩名神」と見え、医薬の神とされる。

 薬師菩薩の神仏習合の社名をもつ神社は、神格により、平安初期にはすでに仏教で医薬をつかさざる薬師菩薩との習介が行われていたものと見える。

 大洗神社以外のものでは、常陸那賀郡に酒列磯前薬師菩薩神社〔名神大〕がある。この二社はともに「大己貴神」と「少彦名神」を祀る神社であり、薬師菩薩(医薬をつかさどる仏)と同一の神々であるとする神仏習合の現れである。


 しかし江戸時代に、神仏分離の思想によってそれまで神仏習合として信仰された「大洗磯前薬師菩薩神」の薬師菩薩が削られ、「大洗磯前神社」と神社名が変わった。



本書について|もくじ


出典|大洗町史(通史編)、昭和61年3月31日発行

発行者|大洗町長 竹内 宏

編集者|大洗町史編さん委員会

発行所|大洗町

印刷|第一法規出版株式会社


登録者|若井 大介(ONCA)